京都から琵琶湖まで縦走して気づく比叡山時代の親鸞の立脚点
▲無動寺谷に降りる山道から見た琵琶湖
6月6日、つゆの最中の晴れの日に修学院の裏のきらら坂から琵琶湖まで縦走しました。
すると発見したのは、親鸞が妻帯をすべきという、六角堂の夢告の前に密行をしていたと正明伝に伝わる無動寺谷が、東塔の南のケーブルカーが琵琶湖側に降りる険しい谷間にあって、千日廻峯の行者が行く方だということです。
二十八歳十月三七日のあいだ、根本中堂と山王七社とに毎日毎夜参詣し、丹誠の御祈あり。これ末代有縁の法と、真知識とを求むるとの御祈誓なり。同冬、叡南無動寺大乗院に閉籠りて、密行を修せらる。是も三七日なりしが、結願の前夜四更に及で、室中に異香薫じ、如意輪観自在薩*(タ 土+垂)現来したまいて、汝所願まさに満足せんとす、我願も亦満足すとある告を得て、歓喜の涙にむせびたまう。是により、明年正月より六角精舎へ一百日の日参をおもいたちたまえり。(正明伝)
ということは、親鸞は横川の恵心僧都の谷の側とは逆に、如意輪観音を祭る無動寺の方にいたということで、どちらかと言えば、山を降りて法然の元に走る直前の28歳の時には、密教コースに進もうとしていたということです。道理で御来迎を求める、貴族的な天台浄土教と立場が違うはずです。
御在所岳にでも登ったら法華経の意図が分かるのでは??
実際、法華経は霊ジュ山で説かれたのであるから、素直に読めば、地湧の菩薩とは、下の写真の御在所のキレットのようなV字の岩場や地面を、3点登攀で登り降りする行者のイメージが源泉にあるとしか思われません。そもそも釈尊はネパールからインドの平野に降りてきた人であり、最後に故郷の方に登ってゆく途中の沙羅の林の中で死んだことは、長阿含経十六の涅槃経で明らかです。大乗仏典の涅槃経のイメージもその延長にあって、法華・涅槃時の意味もそこらにあるのでしょう。
まことに法華経の意味を体感したければ、文字を読むだけでなく、登山するといいと思えます。現に、御在所岳は天台宗の修験の山として開け、一般人に結界が開かれたのは、尾張春日井出身の御嶽教の開山上人、覚明以後です。
↑御在所中登山道キレットの崖を見下ろす。
V字の裂け目の部分をめがけて登り下りするのが鉄則!
本来の法華経は山科毘沙門堂のように神仏習合の山寺たるべきだ!
4月9日に、高校時代の友人らと山科毘沙門堂に行った。この寺は、家康の宗教顧問天台宗の天海大僧正が作った寺で本堂の中は、文化財だらけの門跡寺院でものすごい。
中でも法華経を納経した宝塔のケースなんぞがあり、神仏習合していて、皇室が入ることになっていた寺だけに大変な山寺である。
この寺の入口までは、しっかり駅からハイキングしなければならず、琵琶湖疎水沿いにこの寺の麓から歩くと、天智天皇陵の北に西本願寺の北で倒壊していおり昭和44年に移転された再建日蓮宗本囶寺がある。
法華経系の檀家の方は、このあたりをぜひ訪れるとよいだろう。住職と話すと天海と会った時家康がもっと早く会いたかったと言っていたが、なぜだろうと考えているとおっしゃっていられたので、三河の大谷派に伝わる伝承では、晩年の家康が神道と仏教の対立に悩んでいたこと。神仏習合にするならばどうなるのか悩んでいたらしいので、天海のこうした神仏習合が回答になったのではないかと言うと、なるほどとおっしゃっておられました。
実際、一向宗のように仏教=葬式、神道=伊勢神宮=おめでたと割り切れれば問題はないのだが、現世利益を求めたい三河から東の人にとっては、別の御利益と結びついたお寺の形が必要だ。そこに、寛永寺のような神仏習合の形が必要となり、神仏習合の天台宗の東照宮のようなあり方は、どうやらここから始まったらしい。
秀吉の正妻、高台院ねねは土葬だ!
さて、ここで上の写真のもみじがきれいな、京都高台寺のお堂の中に、秀吉の正妻ねねが土葬されているのをご存じだろうか?
寺の解説によると、ねねは最初、曹洞宗だったのだが、家康の知り合いの三河の出身の和尚によって、臨済禅に鞍替えしており、結局、藤吉郎の親戚の木下家定とこの地に土葬された。
実は、浄土真宗が火葬を白骨の御文とともに流行らせる以前は、日本で火葬を行う人は少なかった。どうも臨済禅の人は、死んだら土に帰るという考え方で、木の肥やしになるのが自然だと考えていたらしい。
すなわち1575年、蓮如が現在の石川県と福井県の境の吉崎御坊で、2人目の妻、蓮佑を追悼し、合わせて禅寺に出していたが応仁の乱による戦乱で飢えて病気になり、結局吉崎に引き取られて死んだ、かわいそうな娘の見玉ちゃん追悼葬儀の法事が、日本史上、はじめて庶民が行った火葬&お葬式である。
その後も江戸時代に浄土真宗が、寺請制度とあいまって火葬を城下町で広めていった以前は、薪代がかかったせいもあって、火葬は広まっていなかった。
よって、高台寺から南の下の霊山観音の背後の阿弥陀山にかけては、江戸時代以前は無数の人が葬られ、現在東山の木々に生まれ変わっているとも言える。実際このあたりの東山の麓は、墓だらけのオカルトな場所である。
本能寺は四条門流。本囶寺は六条門流。
http://www.kyoto-honnouji.jp/about/nobunaga.html
そもそも本能寺は、現在の京都の四条元本能寺町にあった。
織田信長は本能寺の変の時、なぜこの寺に泊まっていたのかと言えば、上記URLをクリックすると分かるとおり、日承上人に帰依していた。法華宗本門流(四条門流)と名乗り、日蓮宗と名乗ることに反対しているこの寺は、「日蓮宗」になっていった六条門流とは違い日蓮の神格化に反対していた寺である。
あべこべに、六条門流の中心だった本囶寺(ほんこくじ)は、現在の西本願寺の北の門法会館の部分を中心とし、西本願寺の北の方までを占めていた。文字通り「日蓮宗」の寺であり、後醍醐天皇の時代に、将軍家や皇室の帰依を受け、足利義昭が宿舎にし、明智光秀がガードしていた寺である。昭和40年代に山科の天智天皇陵の北に移転されている。
この本囶寺を中心とあおぐ京の法華宗(日蓮宗)は、1532年から1536年に天文法華一揆において、蓮如が往生した浄土真宗の山科本願寺を襲撃しており、この結果、真宗は蓮如の隠居所だった現在の大阪城=石山本願寺に移転。
法華宗側はここで自治権を獲得したのだが、1536年に比叡山延暦寺によって京都の日蓮宗21か寺は全部破壊されるという惨憺たる目にあって、これが再建したのは、姉が日蓮宗だった豊臣秀吉の時代である。
▲秀吉の正室ねねの眠る京都高台寺の茶店のねねと秀吉