本能寺は四条門流。本囶寺は六条門流。
http://www.kyoto-honnouji.jp/about/nobunaga.html
そもそも本能寺は、現在の京都の四条元本能寺町にあった。
織田信長は本能寺の変の時、なぜこの寺に泊まっていたのかと言えば、上記URLをクリックすると分かるとおり、日承上人に帰依していた。法華宗本門流(四条門流)と名乗り、日蓮宗と名乗ることに反対しているこの寺は、「日蓮宗」になっていった六条門流とは違い日蓮の神格化に反対していた寺である。
あべこべに、六条門流の中心だった本囶寺(ほんこくじ)は、現在の西本願寺の北の門法会館の部分を中心とし、西本願寺の北の方までを占めていた。文字通り「日蓮宗」の寺であり、後醍醐天皇の時代に、将軍家や皇室の帰依を受け、足利義昭が宿舎にし、明智光秀がガードしていた寺である。昭和40年代に山科の天智天皇陵の北に移転されている。
この本囶寺を中心とあおぐ京の法華宗(日蓮宗)は、1532年から1536年に天文法華一揆において、蓮如が往生した浄土真宗の山科本願寺を襲撃しており、この結果、真宗は蓮如の隠居所だった現在の大阪城=石山本願寺に移転。
法華宗側はここで自治権を獲得したのだが、1536年に比叡山延暦寺によって京都の日蓮宗21か寺は全部破壊されるという惨憺たる目にあって、これが再建したのは、姉が日蓮宗だった豊臣秀吉の時代である。
▲秀吉の正室ねねの眠る京都高台寺の茶店のねねと秀吉