そもそも念仏は称えるのでなく聞くものだった・・
そもそも、大谷派以外にはあまり、親鸞が聞いた女犯ゲの和讃のようなリズムは伝わってない。親鸞は山を降りる前、千日回峰の前行である常行三昧の堂僧である。
▼北陸荒島岳下山時の夕暮れ
みい だあ だい ひの おんどくを
ふうかくしんぜん ひとはみな
おくねん のお しん つね に して
ぶっとん ほおずる おもい ありい
▲荒島岳頂上への登り
ぎょうじゃあ しゅく ほう せつ にょほん
があ じょう ぎょく にょお しん ぴい ぽん
いっしょう しいけん のう しょう ごん
りん じゅう いんどう しょう ごくらああく
行者 宿報 設 女犯
我成 玉女 身 被犯
一生 之間 能 荘厳
臨終 引導 生 極楽
これは中国語で読んでも、ピンイン、四声が完全に一致している。
なむあみだぶつ と 歩きながら、行者は、
悲願の心を聞いてゆくしかないのだろう。
法華経では龍女は男性として扱われているではないか、
山へ登らせろと若いころ迫った女 玉日は
親鸞が流罪から解かれた時には、
もう既に死んでいたのだから。